丹生の歴史

丹生の成り立ち

旧大内町史を参考に、現在の丹生がどうやって誕生してきたのかをまとめました。

丹生の由来

「丹生の名はそんなに古いものではなく、明治時代に名付けられたものである。」

丹生という名はどこから生まれてきたのか調べてみたが、現在のところ確たるものはないが、明治9年(1876年)馬篠・小砂・土居・中山・三殿・町田・松崎・大谷・落合・小磯の10か村が合併して丹生村と称するようになったことは事実である。丹生の名は昔から入野郷に属しており、入野とか入野屋・丹生屋、あるいは丹生谷などと記された古文書があるところから丹生というようになったという説と、大谷に勧請した八幡宮が誕生の神として信仰があつく、誕生が丹生になり丹生と読み替えられたとする説もある。

丹生の沿革

現在の大内町は、昭和30年3月15日誕生した。
前年の昭和29年4月1日、誉水村と丹生村が合併して第一次の「大内町」が生まれ、翌年さらに第一次の大内町と三本松町が合併して第二次の「大内町」が誕生した。

また、大内町史には一説として次のようにも記されています。

昭和3年4月に発行された木村皓一(当時の丹生村長)の著書『丹生村今昔物語』には次のように記されている。
或る人は丹生たる名称は入野郷に因めるものにて、入野山村(現在の福栄村)に丹生山ありて越前の国に同名の山あり、大伴家持の歌に「濁のみ聞けばさぷしも時鳥、にぶのやまくにいゆき鳴くらし」に因めるものだと云うが、伝説には丹生の大谷に勧請した八幡宮が誕生の神として流行し賓客緒の如く絶えず遂に誕生の地と称し後、誕が丹となり丹生となり遂に丹生と誰伝したものだと云うものがあるが、僕は大和が古代から政治の中心に近かって、大和に丹生と云う地名があるところをみると同地方で統治をなして居ったものが、軍事上の失脚或いは政治変遷、或いは経済変動其他の原因に依りて流離の難にあい春族及び臣下をつれて讃岐へ渡り此の地をトして安住の地となし、恰も足利時代に播丹高砂地方の人々が台湾を征して台湾を高砂と呼びたる様に、生れた地を思い出す心にひかれてこの地を丹生とつけたのではないかとも思はれる。

出典
引用・参考文献
大内町{編集大内町史編さん委員会}『大内町史上巻』制作第一法規出版株式会社,1985年,PP.4-7

倭迹々日百襲姫命伝説

百襲姫命って卑弥呼なの?

箸墓伝説

ある時、百襲姫命(ももそひめ)は大物主命(おおものぬしのみこと)と結婚した。オオモノヌシは夜にモモソヒメの元に通っているため顔が見えない。
モモソヒメは我慢できず顔が見たいとオオモノヌシに迫った。
するとオオモノヌシは「朝になっても帰らずに櫛箱(くしばこ)の中に入っている。見ても驚くなよ」と告げた。
朝になりモモソヒメが櫛箱の中をのぞくと小さな蛇がいた。それを見てモモソヒメが驚くと蛇は一瞬でオオモノヌシに変わった。そしてオオモノヌシは恥をかかされたと怒って三輪山に戻っていった。
モモソヒメは後悔して腰を落とし、箸で陰部を突いてしまい死んでしまった。
その後モモソヒメは大市に葬られたそうだ。 この墓は「箸墓」と呼ばれ、人々から崇められた。

箸墓古墳は非常に強い権力者の墓とされている。この伝説のとおり、モモソヒメが箸墓古墳に埋葬されているならば、モモソヒメは当時の権力者である卑弥呼ではないかと言われている。

またモモソヒメは非常に優れた霊能力者であったと言われ、その点からも卑弥呼である可能性を秘めている女性である。

丹生小唄

丹生地区で昔からある盆踊りです。

丹生小唄

一 みませ絹島矢竹のしげり
うらは玄武の うらは玄武の重ね岩
さても丹生は 良いところ
さても丹生は 良いところ
(以下、囃子同じ)

二 赤い寺尾の谷間の紅葉
松にかくれて 松にかくれて色そめた

三 淡路島から出てくるお月
今日も小池で 今日も小池で水鏡

四 三殿牛が谷なく山のとり
なぜに昔を なぜに昔をしのばせる

五 だれが灯すか御大師の山の
夜ごとちらつく 夜ごとちらつくあの明かり

六 いなだこがねに落合 小磯
まつり太鼓が まつり太鼓がきこえくる

七 町田松崎 家並みがつづき
番屋北山 ばんやきたやま瀬戸にそう

四 三殿牛が谷なく山のとり
なぜに昔を なぜに昔をしのばせる

五 だれが灯すか御大師の山の
夜ごとちらつく 夜ごとちらつくあの明かり

六 いなだこがねに落合 小磯
まつり太鼓が まつり太鼓がきこえくる

七 町田松崎 家並みがつづき
番屋北山 ばんやきたやま瀬戸にそう